カテゴリ:昭和の事( 3 )
七夕って・・・
七夕の晩
今年も星を見る事が出来なかった

子供の頃何度か七夕の星空観察会へ行った事がある
「あれがね、オリヒメとヒコボシ。1年に1度しか会えないんだよ・・・」
と、解説する星空先生の話を聞いて僕は
『んんん?どれ?動いてないじゃん・・・ ねえねえどれどれ?』

物心ついてから、七夕の日にベガとアルタイルの2つの星がゆっくり動いて近づくのが見れるんだとばっかり思ってた
7月7日だけ星空を見ても、2つの星が近づいているかどうかなんか判んない・・・。
それに気付いたのは中学生の時だった (笑)

しかしまあ、思い起こせば七夕を行事として楽しんだのは幼稚園に通っていた時だけ
小学生になってからは特別な事はしなかったと思う

保育園へ通う長男は、風呂に入っては大声で『さ~さ~の~は~さ~らさら~』と歌っている
短冊には「くるまをうんてんしたい」って書いていた。

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星と富士山の夜景を撮りに湖畔へ下りて見たのだが、星空は雲の上。
残念ながら今日も富士山はナシ…。

画像は富士吉田市上暮地の畑の脇にさくノコギリソウの園芸種。
誰かが植えて増えたものだろう。
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by a6m2_jpn | 2009-07-08 00:54 | 昭和の事
ラジオ世代
今日は毎年恒例の山中湖ロードレース
新型インフルエンザの影響で開催が危ぶまれたが、どうにか無事開催された
山中湖一周(13.6km)とハーフマラソン(21.0975km)の2つのコースがあり、
毎年数万人規模のレースとなる
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大会記録はハーフマラソンで1:11:00 山中湖1周で 0:44:19
しかし大半のランナーは記録より『楽しむ』事を目的としていて、ほのぼのとした大会だ。
小雨のちらつくあいにくの空模様ではあったが、笑顔で声援に答えるランナーが多かった。

話は変わって『ラジオ』

1970~80年代に多感な青春を過ごした私は他聞にもれず『ラジオ世代』だ
毎晩9:00から自室にこもり、勉強をしながらラジオを聴いていた
いや、「ラジオを聴きながら勉強しているフリをしていた」と言うのが本当かもしれない

TBSラジオ954  『いっけい&よしお の夜は友達』 に始まる毎日の日課
様々なコーナーがあったが、一番印象に残っているのは『スネークマンショー』
小林克也の軽快なEnglishTalkとナンセンスギャグ
今でもたまにCDで聴いては車の中でバカ笑いをしている
「サキサカとモモナイの、今夜はごちそうさま~」

ひとしきり笑った後、深夜0時になると
『JAL JetStream』
フランクプールセルや101ストリングス、レーモンルフェーブルオーケストラなどなど
海外旅行など夢のまた夢とされていた時代に、音楽とナレーションで世界旅行の雰囲気を楽しんだ
城達也さんの声がミスターロンリーのメロディーに乗って流れ出すと
瞬時に心は上空1万メートルへ舞い上がったものだ



当時、番組内で紹介されていたJALパックの海外旅行は今よりも遥かに高額で
「ロンドン10日間¥85万9千円です・・・」とか言うのを聴いてはため息をついていた
時は流れ、私が高校を卒業するころには、格安航空券を販売する小さな会社が出来始め
何も考えず無我夢中で航空券を買うためにバイトをし
周りの心配をよそにアメリカ横断一人旅に飛び出した
今から22年前の事である
今でこそ押しも押されぬHISなどはその頃産声を上げた会社だ

無鉄砲な海外旅行はその後
欧州にまで足を伸ばし、結婚する2年前まで続いた
カセットテープにJetStreamを録音(エアチェック)し、番組のエンディングテーマ「夢幻飛行」を聞きながら
夜のフランクフルトへ着陸した時の事、隣に座っていたドイツ人の顔まではっきり覚えている

しかし、ある大きな事件をきっかけに、JetStreamの呪縛から解かれた
その事件とは、あの9.11同時多発テロ
あの時私はマンハッタンに居た
「なにがあっても帰れる!大丈夫!大丈夫!」って、いつも思って旅をしていたが
あの時ばかりは、幼い頃からの思い出や両親の顔、まだ恋人だった家内の笑顔などが走馬灯のようにグルグルまわった

煙を上げるツインタワーを遠くに見ながらAmTrackでマサチューセッツ州のBostonへ
長い列に並んで3日後にやっと電話が繋がり生きている事を知らせた
予定の2週間後、日本人専用のANAチャーター機に乗り込んだ時
生まれてから一番深いため息をついた事を鮮明に覚えている

あれから約8年が過ぎ、やっとトラウマも解消され
JetStreamの呪縛が戻ってくるような予感がする・・・

往復のチケットだけを持って、13カ国目のどこかの国へ・・・。
60過ぎるまでは無理だろうなぁ・・・



ラジオという奴はテレビとは一味も二味も違う
聴いている者それぞれが自分の想像の世界の中で様々な夢を膨らませる事ができる
優等生でもない、どこにでも居る若者を世界へ飛び出させてくれたラジオ
そんなラジオがいつまでも無くなる事のないように・・・
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by a6m2_jpn | 2009-05-31 14:07 | 昭和の事
After 1965 【My old cameras】
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Nikon D80 / NIKKOR AF-S18mm-70mm 1:3.5-4.5G

1968年初夏、オヤジがminolta SR-1 を首にさげて東京羽田国際空港から香港行きのCATHAYPACIFIC B-707 に乗り込む姿をおぼろげながら覚えている。
見学デッキの金網にへばりついて、地上を歩いてタラップを昇りながら手を振るオヤジを見ていた。ボーディングブリッジなんてなかった時代。

当時の羽田空港には航空博物館があって、そこへ連れて行ってもらうのが何よりの楽しみだった。
小学4年生の頃だったかな?minoltaを持って一人で羽田へ行き始めたのは・・・。
小遣いを貯め、電車とモノレール代・フィルム代・現像代・・・ 空港で過ごすのが大好きだった。
ジェット燃料の燃える甘い匂いが安息香のように感じていた。
特にDC-8のエンジンスタート。 電源車から黒煙が上がり1発づつ火が入る。最近のターボファンエンジンとは全く別の音。甲高い金属音の混じった轟音で、アナログチックな音。
やがてプッシュバックしてRunwayへ、4本の排煙を引きながら京浜工業地帯を上昇してゆく機体を、見えなくなるまで見ていた。
「望遠レンズが欲しいな・・・」って思っていたけど、小学生が買ってもらえる代物じゃあない。
そんな「夢のまた夢」みたいなモノがいつも頭の中にあった少年時代だった。
で、そのほとんどが「夢」で終わっている、いや、終わりかけてるんだって、今 気付いた。
望遠レンズやマミー1リッターガブ飲みの類は思いを果たしたが・・・。
『なんで諦める必要があんだよ!』 そんな事を考えている自分を家内は冷ややかに見るんだろうな・・・。 

下の写真が当時の羽田空港。駐機中の機体は手前から 日本航空 DC-8・東亜国内航空 DC-9 ・全日本空輸 B-727。
手前で金網にへばりついてる人たちはきっと、家族の誰かがDC-8に乗るために出てくるのを待っているんだと思う。このあと「お~~~いっ!気をつけていって着てね~!お土産楽しみにしてるからね~っ!」などと叫びながら手を振ったに違いない。
当時はそれが日常的な光景だった。
いい時代だった。

アポロが月面着陸を成功させた時分から我が家の出来事を記録し続けたminoltaだったが、いつ頃から戸棚の奥で眠っていたのだろう。
探し物をしているといつもそうだ。普段は思い出さないモノがひょっこり出てくる。
OLYMPUSは仕事でパンフレットを作る時に広角レンズとともに我が家へとやってきた。
最新のDIGITAL1眼レフに馴染んだ手で持つと、愛おしくなる。

ファインダーを覗くと1960年代が見えるんじゃないかって・・・。そんな気分になってしまった。

もう一回自分の夢を胸の中の戸棚の奥から引っ張り出してみようって
2台のカメラがそう思わせてくれた。

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minolta SR-1
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by a6m2_jpn | 2009-01-20 18:12 | 昭和の事